夜空にひかる よだかのほし

デザイン/プログラミング/教育/読書/スポーツ…すべて未熟ですが、未熟なりにつらつらと。

出会ったことを後悔してしまう、「悪魔」のような本

出会えてよかったと思える本はたくさんあるけれど、
出会ったことを後悔してしまう本というのは滅多にないのではと思います。しかし、よだかはそんな「悪魔」のような本に出会ってしまったのです。

『差別感情の哲学』/中島義道 著

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https://www.amazon.co.jp/差別感情の哲学-講談社学術文庫-中島-義道/dp/4062922827/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1529721598&sr=8-1&keywords=差別感情の哲学 

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読書は著者との対話だと言われますが、この本では著者と対話をする暇など一切与えられませんでした。よだかが本を開いた瞬間、
著者は大鉈をふるって無防備のよだかに容赦なく切りつけてくるのでした。よだかは避ける暇なくあっという間に真っ二つ。そんな感覚に陥るような本でした。

 

著者はその聖剣で、よだかの価値観、常識、善心といった自分がそれまで疑おうともしなかった常識を快刀乱麻を断つように、バサバサと切り捨てていくのでした。

 

よだかは自分の価値観を疑い始め、崩れ去った「当たり前」をもう一度組み立てていこうと思うようにはなりました。だけどよだかの常識や価値観はすべて著者によってきれいに剥がされ、心は丸裸になり、何が正しいのか、何を信じればいいのか、もう五里霧中になってわからなくなってしまったのです。

「この本を読まなければ、こんな苦悩に陥らずに済んだのに…」

よだかは何度そう思ったことでしょうか。しかし、その思いとは裏腹にこの本の虜になってしまったのも事実です。よだかは一冊の本を繰り返し読むのが好きなタイプなのですが、この本はよだか史上で一番精読した本だと言えます。

 

とはいえ読むにはいつも相当の覚悟をして挑みます。傷を負う覚悟を持って毎回読むのです。そしていつしか今のよだかにとってはバイブルともいえる本になりました。

 

ぼくらの日常には事実として、あらゆる「差別」が存在している。人種差別、性差別、障害者に対する差別、学歴差別…。そうした差別は今ではすでに「特権化」されていて、人々は「差別はしてはならない」と直感で、本能的に考えています。

しかし、著者は別の視点を突きつけます。世の中にはもっと目を凝らすと、「特権化」されておらず目に見えない「差別感情」がはびこっている、ということです。

例えば、努力することは世間では美徳とされています。努力すること、向上心をもつことは無条件に賞賛の対象となります。逆に、努力を怠っている人や向上心に欠ける人は、無条件に非難の対象となります。しかし、実際には

「努力できる人」もいれば先天的な理由で「努力ができない人」がいてもおかしくないはずです。

にも関わらず「努力ができない人」は努力ができないことに対して不満を漏らすことは許されないのです。一度不満を漏らせば、「単に自分が怠惰なだけだ」という非情な反応が返ってくるだけでしょう。


著者は、こうした反応を返す人々にこそ、根深い「差別感情」が潜んでいるのだと主張するのです。「努力はして当然だ」という世間一般の常識を疑うことなく、その常識をそのまま自分を当てはめて、そこから逸脱する人々を無意識のうちに差別をしているのです。

「努力できる人は偉い」という言葉には、努力しない人に対する軽蔑の意が含まれているとも知らずに。
つまりその人々は自分が差別をしているという意識がないーーその点が筆者が差別感情の一番の問題とする点なのです。

 

人々は、「常識」「当たり前」というものさしで、あらゆる人を不断に「差別」している。そしてその差別感情は人々の意識の根底に流れているからこそ解決が難しい。これが筆者が投げかけるテーマなのです。
「差別はしてはならない」そう思っている人こそ、自分が無自覚のうちに差別感情を抱いてしまっているのです。

 

多くの人にとってこの本が「劇薬」となることは間違いないでしょう。
しかしだからこそ価値があるとも思うのです。「読まなければよかった」と思うかもしれません。しかしその苦悩こそが著者の求めるゴールなのだと感じます。自ら傷を負う覚悟をもってこの著者との戦いに挑んでください。健闘を祈ります。